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日本拳法について
日本拳法とは、近接格闘技術のうち最も強力で危険な当身技を中心に投技・関節逆捕技をも含めた近代的な総合格闘技である。
記録の上では古代相撲を起源とする我が国の格闘技術は、武士の甲冑組討から柔術となり、現在では投げ技を中心とした柔道、返し技逆捕り技を中心とした合気道、そしてこれらとは別に力技を中心とした角力とに大別するに至る。しかしそれら流儀では、危険であるとの理由から突き・打ち・蹴りといった強力な武技である当身技を禁止技として一部高段者のみに形として伝えられているにすぎない。
日本拳法はその最も強力で危険な当身技を、防具を着装することでより安全により実戦に近い姿で稽古し競技を行うことを可能にしている。
思いっきり相手と撃ち合い、投技・関節逆捕技を駆使出来ることから、形練習では習得し難いとされる間合い・タイミング・撃力の加減が習得でき、比較的短期間で一定の格闘技術を持つに至るところが他の格闘技との違いということにもなる。
拳法とは、突き・打ち・蹴りといった当身技と、組み付いたときの投技・関節逆捕技などを用いて、素手にて相手と闘うことを目的とする徒手格闘技の一つである。
「日本拳法」の源流を尋ねてゆくと、相撲・柔道と同じところに行きつく。『古事記』の国譲りにおける武甕槌神(鹿島神宮祭神)と建御名方神(諏訪大社祭神)の二神による力競べである。武甕槌神が建御名方神の腕を捕り「若草を執るがごとく、つかみひしぎて投げはなつ」とあるから、臂の関節逆捕技であったと考えられる。
「日本書記」によると、垂仁天皇7年7月7日に大和国磯城郡においての初の天覧試合が行われ、野見宿弥と当麻蹶速とが生死を賭けて相撲をとっている。当麻蹶速は大和当麻邑の人で、蹴ることを得意としていたから、その名を蹶速とつけたのに対し、出雲国の野見宿弥の攻撃技も蹴技であった。
両者互いに蹴り合い、宿弥が蹶速のみぞおちを蹴って倒し、なおもその腰を踏み折って殺したと記されている。
この古代相撲は、のちの相撲・柔道の原型といわれているが、現在の相撲・柔道よりも「日本拳法」を防具をつけずに行った場合に近い格闘法であったと考えられる。
昭和のはじめ、武道専門学校出身の大阪府警察本部柔道師範・黒山高麿(洪火会会長・福岡・1895-1977)は、柔術諸流派に伝わる当身技が滅亡寸前にあることを残念に思い、当時関西大学柔道部学生であった澤山勝(宗海・大阪・1906-1977)に当身技の復活と、安全な稽古法の研究を要請した。
しかし従来の形(型)稽古による当身技の鍛錬は技法が実戦のそれとは乖離し、見た目には豪壮華麗なものとして映るが実用に堪えるものでは最早なかった。澤山は唐手(空手)や拳闘(ボクシング)の技術を研究し取り入れ、直接打撃による稽古を可能とするために防具の着装を創案。思う存分突き、打ち、蹴り合い、組んでの投技、関節逆捕技を施すことのできる乱稽古法を創始した。
1932(昭和7)年10月、この格闘武道を「大日本拳法」と称し、大阪府天王寺区東高津北之町114番地 洪火会本部に大日本拳法会(会長 澤山勝)を創立した。同時に会長澤山は関西大学拳法部・洪火会本部拳法師範となる。次いで1936(昭和11)年4月、関西学院大学拳法部を創立し師範となった。