日本拳法の歴史
 拳法とは、拳や足をもって、突く 打つ 蹴る などの当身技と、組み付いたときに投技 関節逆捕技を行うなど素手で相手と闘うことを目的とする徒手格闘技の一つである。これを日本の歴史を追って説明してみよう。

 「日本拳法」の源流を尋ねてゆくと、相撲・柔道と同じところに行きつく。『古事記』の国譲りにおける武甕槌神(鹿島神宮祭神)と建御名方神(諏訪大社祭神)の二神による力競べである。武甕槌神が建御名方神の腕を捕り「若草を執るがごとく、つかみひしぎて投げはなつ」とあるから、臂の関節逆捕技であったと考えられる。

 「日本書記」によると、垂仁天皇7年7月7日に大和国磯城郡においての初の天覧試合が行われ、野見宿弥と当麻蹶速とが生死を賭けて相撲をとっている。当麻蹶速は大和当麻邑の人で、蹴ることを得意としていたから、その名を蹶速とつけたのに対し、出雲国の野見宿弥の攻撃技も蹴技であった。

 両者互いに蹴り合い、宿弥が蹶速のみぞおちを蹴って倒し、
なおもその腰を踏み折って殺したと記されている。
この古代相撲は、のちの相撲・柔道の原型といわれているが、
現在の相撲・柔道よりも「日本拳法」を防具をつけずに行った
場合に近い格闘法であったと考えられる。





柔術・柔道・合気道
 嘉納治五郎(1860-1938)は、天神真楊流、起倒流を学んだほか、幕末諸流の大家について教えを乞い、さらに各流の伝書、その他文献より諸技法を研究、柔(やわら)の理による投技、固技を中心にした柔術本来の目的である勝負法に加えて、体育法、修身法を柱として、人間形成をはかる「道」とした。そしてこれを「柔道」と称し、これを教えるところも技を練るだけの場所ではなく、それを「講道館」と命名して講道館柔道を創始した。このとき当身技は、柔道衣を着ての乱取では危険なため「講道館護身術 極の形」の中に残しただけだったので、その後ほとんどといってよいほど絶えてしまった。

 植芝盛平(1883-1969)は、起倒流、柳生流の免許を受けた後、大東流柔術の武田惣角に習って同流の印可を受け(大正5年)柔術の特徴である徒手対徒手、または徒手で武器を持った敵を制圧する関節逆捕技、投技を中心に、自らの工夫を加え、大本教の宗教観を取り入れて現在の合気道を創始した。


日本拳法
 昭和のはじめ、武道専門学校出身の大阪府警察本部柔道師範・黒山高麿(洪火会会長・福岡・1895-1977)は、これら柔術諸流派に伝わる当身技が滅亡寸前にあることを残念に思い、当時関西大学柔道部学生であった澤山勝(宗海・大阪・1906-1977)に当身技の復活と、安全な稽古法の研究を要請した。

 研究の内容は、
1)当身技はすこぶる威力があるため、その悪用をどう防ぐか。
2)稽古に危険がともなうので、今までは十分稽古ができなかった。したがってその安全法。
3)武芸として生きた時代の狭量利己観念から、極意として公開しなかった技をどう発掘するか。

 従来の形稽古は、技法が実際から離れてしまい、見た目には豪壮華麗なものとして映るが、個性がなくなり技の上達が遅れる。危険を無くし短期に熟達させるために防具を着装し、思う存分突き、打ち、蹴り合い、また 組んでの投技、関節逆捕技を施すことのできる乱稽古法を創始した。

 1932(昭和7)年10月、この復活させた当身の格闘武道を「大日本拳法」と称し、大阪府天王寺区東高津北之町114番地 洪火会本部に大日本拳法会(会長 澤山勝)を創立した。と同時に会長澤山は、関西大学拳法部・洪火会本部拳法師範となる。次いで1936(昭和11)年4月、関西学院大学拳法部を創立し師範となる。


















澤山 宗海 ( SAWAYAMA MUNEOMI )
本名 勝 ( MASARU )

明治39年 12月12日生。 大阪に育つ。

昭和7年  関西大学法文学部法律科を卒業。
        同年秋「大日本拳法」(後日本拳法に改称)を創始し、日本拳法会 初代会長となる。

昭和15年 2月応召、同21年5月まで南支の戦線にあり。

昭和29年 関西大学講師。

昭和29年 日本拳法会会長を矢野文雄に譲り、宗家を号し道の研究に専念す。

昭和42年 大阪薫英女子短期大学教授。

昭和52年 9月没。 著書に「大日本拳法書」「日本拳法教伝」がある。

「日本拳法」改訂版(毎日新聞社発行)・著者略歴より